フランス革命におけるヴァルミーの戦いとは

フランス革命におけるヴァルミーの戦いというものを聞いたことがあるでしょうか。

フランス革命というのは、ルイ16世とマリーアントワネットの処刑で終わるものではありません。

その後も様々な戦いがあり、フランス革命は展開していくのです。

それならば、ヴァルミーの戦いとは一体なんなのでしょうか。

ここではヴァルミーの戦いについて解説します。

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ヴァルミーの戦いの前

1789年7月14日、バスチーユ牢獄襲撃によってフランス革命が始まりました。

その後、マリーアントワネットの祖国であるオーストリア帝国とプロイセンは、1791年に木谷付宣言というものを発布したのです。

フランス国外に革命の影響が出ないよう、軍事介入を始めました。

その影響を受け、1792年7月にはオーストリア軍がフランスに侵入していきます。フランスは祖国危機を宣言し、プロイセンもフランスに入り込みました。

「国王夫妻に危害を加えた場合はパリを壊滅させる」と唱え、これはフランス市民を激怒させる原因となったのです。

ヴァルミーの戦い

アルゴンヌのヴァルミーという地域において、フランス軍とプロイセン軍がヴァルミーの砲撃というものを行いました。

これがヴァルミーの戦いになります。

フランス軍はプロイセン軍を窮地に追い込み、フランス側が300人、プロイセン側は200人の死者を出したと言われています。

フランス革命が始まった後、初めて勝利したということで、フランス側ではこれは革命精神の勝利と考えられました。

詩人のゲーテは「ここから、そしてこの日から世界史の新しい時代が始まる」と述べたと言われています。

実際の戦闘はショボかった!?

しかし、そのようなヴァルミーの戦いでは大した戦いがなかったとも言われています。

小規模な戦闘は確かに起こりましたが、現代の感覚ではそれらは小競り合いのようなものでした。

雨が降ったから戦いをやめたという背景があり、また、プロイセンを交代させたといっても、それは湿地帯であったために食事ができず、20キロ後方に移動しただけだったとも言われています。

歴史的に国民軍が勝利したということに価値がありますが、戦術的な意味ではほとんど意味がありません。

また、これにより、立法議会は王政廃止を宣言することになったため、歴史的には大きな価値があります。

まとめ

いかがでしょうか。

ヴァルミーの戦いというのは、立法議会が王政を廃止するに至った戦いとしても知られていますね。

これによってフランスは共和制の時代を迎えたのです。

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