フランス革命におけるバスティーユ牢獄とはどのようなものだったのか

フランス革命が起こった時に発端となったバスティーユ牢獄とは一体どのようなものだったのでしょうか。

そして、1789年のバスティーユ牢獄の襲撃には一体どのような意味があるのでしょうか。

1789年にバスティーユ牢獄が襲撃されたことにより、フランス革命が勃発しました。

ここではこの牢獄は一体何だったのか、どのような意味を持っていたのか、という事について解説します。

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もともとは要塞

バスティーユ牢獄とはその名は牢獄ですが、1370年、シャルル5世の時代に建設された要塞でした。

ちなみに日本語では牢獄と言いますが、フランス語のバスティーユには「要塞」という意味があります。

フランス革命が起こる前には政治犯などを収容する牢獄だったのです。

侵入が困難であるということから牢獄に適切と考えられ、ルイ13世の首相、リシュリューの時代に牢獄として使われるようになりました。

牢獄としての利用

ルイ14世の時代は絶対王政の最盛期でしたから、王政を批判したものも逮捕され、このバスティーユ牢獄に投獄されていました。

投獄される際は馬車で連れて行かれましたが、カーテンによって外を見ることはできず、さらに解放される時には牢獄内でのことは一切口外しないと誓わされたと言われています。

また、牢獄の中では名前を名乗ることができず、あくまでも番号で呼ばれていました。

人間以外にも、危険視されたものまで収容されたとされています。

例えば、百科全書も保管されていたことがありました。

バスティーユ牢獄の襲撃

1789年7月14日、バスティーユ牢獄の襲撃事件がありました。

これによってフランス革命が始まったと言えます。

先立つ5月5日に行われた三部会は第三身分の者にとっては非常に失望させるものであり、彼らはヴェルサイユのテニスコートで国民議会を結成しました。

そこに47名の聖職者と貴族が参加し、ルイ16世は国民議会を認めざるを得ない状況に陥ったのです。

政治的緊張が続く中、市民たちがバスティーユに向かい、牢獄は陥落しました。

まとめ

いかがでしょうか。

バスティーユは要塞でしたから、ここを陥落させるということは政治的権力が人々の手に移ったということが言えます。

ただの牢獄を襲撃したわけではなく、人々は政治的権力の掌握を目指し、とうとう行動に出たのです。

攻め込んだ時は98人が命を落とし、73人が負傷したとされています。

当時は政治犯は収容されていませんでしたが、治安を乱したということで7人の老人が収容されていました。

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