フランス革命によってうまれた1791年憲法とは一体どのようなものだったのでしょうか。
フランス革命と聞くと、どうしても1789年に採択されたフランス人権宣言ばかりが注目されてしまうことがあります。
しかし、このフランス人権宣言というのは憲法制定の第一段階として採択されたものであり、1791年にはフランスにとって初めての憲法が出来上がりました。
これが1791年憲法というものです。
この憲法は一体どのような意義を持っていたのでしょうか。
ここでは1791年憲法の意義について解説します。
1791年憲法の概要
先ほども述べた通り、1791年憲法というのはフランス人権宣言を経て、それが聖職者民事基本法の制定等の曲折を経てから出来上がったものです。
前文に人権宣言17条があり、本文は1,207条から成り立っています。
王権神授説はなくなり、国王は国民の代表者として仕事をするという立場に変わりました。
ただし、制限選挙、なおかつ間接選挙が設けられていたため、国民の大半を占めている農民などは政治に参加することができませんでした。
革命の産物とも言えるこの1791年憲法は、1792年のテュイルリー宮殿襲撃事件によって破綻します。
1791年憲法の意義
1791年憲法は、やはりフランスが採択した人権宣言を憲法という形で理念付けたというところに意味があると考えられます。
能動的市民と受動的市民が分けられ、制限選挙が始められ、同時に1791年憲法体制というものも出来上がりました。
地方行政制度が新しくなり、アッシリア紙幣が発行されるようになり、カトリック教会が国を支配するのではなく、教会は国家に従属しなければいけないという考え方を打ち出します。
このような体制を1791年憲法体制といいます。
言い換えれば、1791年憲法は国家的な体制自体を変えてしまったと言えるでしょう。
テュイルリー宮殿襲撃事件
8月10日事件とも呼ばれるこの事件は、1791年8月10日、テュイルリー宮殿を襲撃することによってマリーアントワネットとルイ16世の家族を捕え、タンプル塔に幽閉した事件です。
この事件をきっかけとしてルイ16世の王権というものが停止されました。
サン・キュロットを中心とする武装蜂起が起こり、武力闘争の結果多くの人が亡くなったのです。
ルイ16世に責任を取る勢いは徐々に強くなり、これはルイ16世とマリーアントワネットの処刑にもつながっていくことになります。
まとめ
いかがでしょうか。
1791年憲法の意義は、やはり人権宣言を形にしたことにあると言えるでしょう。
しかし、この憲法はこれにとどまらず、さらに1793年憲法、共和暦3年憲法等と形を変えていくことになるのです。