フランス革命が起こったあとの王政復古とは一体どのようなものだったのでしょうか。
フランス革命が起こった時、ブルボン朝の国王ルイ16世は処刑され、王政が廃止されました。
それによって第一共和政がもたらされたのです。
しかし、フランスではその後、ナポレオンによる第一帝政が起こり、その後は王政が復活しました。
それは一体どのようなものだったのでしょうか。
ここでは、王政復古について解説します。
ルイ18世
フランス革命が起こったことによって廃止された王政ですが、その王政は1814年、ルイ18世によって復活しました。
ルイ16世の次男、ルイ・シャルルはルイ16世の処刑によってルイ17世となりましたが、その頃はまだタンプル等に幽閉されており、戴冠式などはなかったのです。
さらにルイ17世はその後王政から離れた教育が必要とのことで、靴屋に引き取られました。
しかしその後虐待され、タンプル等に閉じ込められ、病気になって10歳という幼い命を落としたのです。
ルイ16世とマリーアントワネットの直系の子孫は存在しません。
そのため、ルイ15世の王太子、ルイ・フェルディナンとマリージョゼフ・ド・サクスの間に生まれた三男がルイ18世として即位したのです。
誰を国王とするか
ルイ18世が国王として選ばれるまでには様々な議論がありました。
もともとルイ18世が選ばれたのは、ナポレオンの下で外相タレーランがブルボン朝復興を唱えたことが大きかったと言われています。
イギリスはブルボン家の者を望み、オーストリアはナポレオンの子孫を検討し、ロシアはオルレアン侯爵のルイ・フィリップかスウェーデン王大使のジャン・バティスト・ベルナドットがいいなど、様々な見解が飛び交っていました。
流動的な王政復古でしたが、戦争に疲れた世の中から妥協され、選ばれたのがルイ18世だったのです。
王政復古の後
王政復古の時は世の中も新しい王の即位を喜びました。
しかしその熱狂が冷めると、フランス革命の成果がなくなったということでルイ18世は急速に支持を失っていったのです。
その反面、三色旗に代わって白色旗が用いられ、ルイ17世の後継者としてルイ18世が認識されたり、ルイ16世やマリーアントワネットの年忌が重視されるなど、フランス革命で起こったことの真逆のことが起こり始めていました。
このような話を聞いて、ナポレオンがエルバ島から脱出したのです。
しかし彼はパリから追い出され、ワーテルローの戦いで敗れ、再追放されるまではフランスに帰ることができませんでした。
まとめ
いかがでしょうか。
フランス革命によって廃止された王政は復活しますが、また廃止されていくことになります。
王政復古した辺りではフランス革命の真逆を行く行為によって、ルイ18世は少なからず歓迎されたのです。