明日の国歌、ラ・マルセイエーズとは一体どのようなものなのでしょうか。
これはフランス革命の最中に生まれたものであり、マルセイユの義勇兵が歌って広めたという事からこのように名付けられているのです。
それならば、ラ・マルセイエーズとは一体どのようなものなのでしょうか。
ここではラ・マルセイエーズについて解説します。
ラ・マルセイエーズの概要
今はフランスの国家として愛されているこの曲は、もともとは革命政府がオーストリアに参戦したという知らせを聞いたとき、1792年4月25日から26日の夜にかけて、市長のフィリップ・フレデリック・ド・ディートリヒ男爵の希望により、会いに出かけていく兵隊たちを鼓舞するために1番で作詞作曲されたと言われています。
もともとは「ライン軍ための軍歌」というタイトルでした。
その後はパンフレットで全国的に広がり、テュイルリー宮殿襲撃事件のときには兵隊たちが口ずさんでいたということでパリ市民の間にも広がっていくことになったのです。
ナポレオン時代
104年にナポレオンが皇帝になると、ラ・マルセイエーズの「暴君を倒せ」「専制君主を倒せ」という部分があることから国家を「出陣の歌」に変更しました。
ラ・マルセイエーズには第一帝政から王政復古にかけては公の場で歌うことが禁じられたのです。
1830年に7月革命が起こると、また公式の場で歌うことが許されるようになり、第3共和制の下で再び国歌とされました。
第4共和制で使われていた1946年憲法においても、今現在の第5共和制における1958年憲法においても、この曲を国歌として定めるということが明記されています。
追悼の歌
2015年11月13日、パリで同時多発テロが起こりました。
この時にはフランスとパリ市民との連携を表現しようということでこのラ・マルセイエーズが演奏されることもたくさんあったようです。
国民議会の臨時会合においては、犠牲者への黙祷の意思を示すために人々がこの曲を歌いだし、最終的には大合唱となりました。
国民議会で歌われるのは第一次世界大戦終結依頼と言われています。
また、同じく11月の17日、ベルサイユ宮殿で大統領が開催した元老院においても、この曲が合唱されました。
民間の中でも11月15日にノートルダム大聖堂で追悼ミサが開かれ、この曲が演奏されました。
11月17日のウェンブリースタジアムの親善試合においてもこの曲が追悼とフランスとの連帯を表すために演奏されたのです。
まとめ
いかがでしょうか。
この曲はフランス革命の時に出来上がり、その後もずっと国民から愛されてきました。
多くの人々の命が失われた時には追悼の曲として使われるなど、今でもよく歌われる曲の1つなのです。