フランス革命によって国王ルイ16世が島国、処刑され、ブルボン朝の王政が開始されました。
それに伴って共和制が訪れ、フランスは第一共和制の国家となったのです。
しかしフランスはその後無事に共和制の国になったというわけではありません。
ジャコバン派のロベスピエールが台頭し、恐怖政治が行われました。
この恐怖政治とは一体どのようなものだったのでしょうか。
ここではフランス革命の後に起こった恐怖政治について解説します。
恐怖政治の概要
恐怖政治というのは反対者を島国や拷問、脅迫や処刑などの方法によって弾圧し、政治上の目的を達成しようとする政治のことを指し、一般的には恐怖政治と言うとフランス革命における恐怖政治が連想されるのではないでしょうか。
フランス革命においては1793年5月にジロンド派が追放されてから、1794年7月のテルミドールの判断まで、ロベスピエールが率いるジャコバン派によって恐怖政治が行われました。
恐怖政治が行われている間はパリだけで1戦400人、フランス全体では20,000人が処刑されたと言われています。
処刑方法はもちろんギロチンが最も多く、銃殺刑という方法も用いられていました。
ギロチンの刃を斜めにしたらよく切れるのではないかと助言したのは皮肉なことにルイ16世だったとされています。
分派闘争
ジャコバン派の中では、ロベスピエールに対してダントン派とエベール派の分派闘争が起こるようになりました。
1794年、ロベスピエールはこれら2つを厳しく批判します。
最初はダントン派にその矛先が向けられ、彼らは逮捕されることとなりました。
数日のうちに死刑判決が出され、翌日に執行されるという状態だったのです。
ダントンは死刑場に連行される途中でロベスピエールの家の前を通った時、「次はお前の番だ」と叫んだと言われています。
テルミドールのクーデター
1794年7月、とうとうロベスピエールは粛清されることとなりました。
1793年4月にパリで革命裁判所が設置され、そこから1794年6月10日までに1251人が処刑され、6月11日から7月27日までに1376年が処刑されました。
7月27日午前11時、ロベスピエールは国民公開に臨みましたが、その日の午後3時に逮捕されたと言われています。
その後パリ市庁舎に逃亡し、ピストルで自殺しようとしましたが顎に重傷を負っただけで自殺は叶いませんでした。
コンシェルジュリー両国で一晩過ごした翌日、死刑判決を受け、処刑されたのです。
その日は22人が革命広場で処刑され、翌日には70人、その次の日には12人が処刑されたと言われています。
まとめ
いかがでしょうか。
そもそもこれだけの短期間にそこまでの人数が処刑されたということに衝撃を受けますよね。
ギロチンはわずか数日間の間に何千人もの血を吸い込んだと言われているのです。