フランス革命で処刑されたマリー・アントワネットとは

フランス革命に散った悲劇の王妃と言われるマリーアントワネットというのはどのような人物だったのでしょうか。

フランス革命が起こる前は赤字夫人とも呼ばれるほど贅沢な生活をしていたと言われる人物ですが、子供が生まれた後は良き母として子育てに奮闘したとも言われています。

フランス革命の時にギロチン殺害されましたが、マリーアントワネットはどのような人なのでしょうか。

ここではフランス革命で殺害されたマリーアントワネットについて解説します。

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マリーアントワネットの生い立ち

マリアントワネットというのは神聖ローマ帝国フランツ一世と、オーストリアのマリアテレジアの子供として生まれました。

マリアテレジアの父、カール6世は後継者の問題で悩んでいましたから、マリアテレジア自身は出来る限り子供が欲しいと考えていたと言われています。

子供は16人おり、男の子が5人、女の子が11人でした。

マリーアントワネットはこの16人目の子供に当たります。

当時のオーストリアはプロイセンの脅威を受けており、外交関係を深めるためにフランスと同盟を結ぼうとしていました。

そのためにルイ16世と政略結婚をしたのです。

結婚生活について

わずか14歳でフランスに嫁いだマリーアントワネットは特に当初は孤独だったと言われています。

後にルイ16世となるルイオーギュストは無口で狩りが好きな人物でしたが、マリーアントワネットは社交的な性格でした。

結婚した後もなかなか子供が生まれず、7年目にして待望のマリーテレーズシャルロットが誕生したのです。

マリーアントワネットは浪費家として知られていますが、貧困にあるもののためのカンパを募ったり、子供におもちゃを我慢させることもあり、言い伝えほど浪費家ではなかったのではないかとも言われています。

ちなみに、「パンがないならケーキを食べればいいじゃない」という発言はマリーアントワネットのものではないといわれています。

フランス革命

8月10日事件によってマリーアントワネットは夫であるルイ16世、2人の長女であるマリーテレーズ、次男のルイシャルル、ルイ16世の妹エリザベートと共にタンプル塔に幽閉されました。

幽閉された生活ではあっても待遇は悪くなかったのですが、1793年1月にルイ16世が処刑され、マリーアントワネットは息子のルイシャルル引き離されました。

コンシェルジュリー監獄に移送され、そこで10月15日、死刑判決を受けたのです。

彼女の処刑は翌日16日、コンコルド広場によって行われました。

コンコルド広場に連行される前、エリザベートに宛てて手紙を書き、それを看守に託しましたが、それはエリザベートには届かなかったとされています。

まとめ

いかがでしょうか。

マリーアントワネットというと浪費家であり、フランス革命の黒幕のようなイメージを持たれていますが、母親としては良い母だったとも言われており、最近ではオーストリアから14歳でフランスに嫁いだという背景を踏まえ、寂しかったのではないか、彼女を理解する人物がいれば歴史は違ったのではないか、などという同情的な声も出されています。

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