フランス革命によって国民議会と立法議会はどう変わったか

フランス革命が起こったことによって、国民議会と立法議会はどのように変わったのでしょうか。

フランス革命によって王政が廃止され、共和制が成立しました。

しかし、フランスの政治体制はその後も二転三転し、その後には王政が復活します。

それならば、国民議会と立法議会はどのように変化したのでしょうか。

ここではフランス革命における国民議会と立法議会について解説します。

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国民議会とは

1789年、ルイ16世が三部会を招集したあとに第3身分である平民たちはベルサイユ宮殿のテニスコートに行き、国民議会を成立させました。

これは憲法を制定するまで決して解散しないということを誓ったものです。

これをテニスコートの誓いと呼びます。

もともと第3身分を中心として出来上がった国民議会は、1789年7月9日に憲法制定議会と名前を変えました。

そして憲法制定のための準備を始めたのです。

7月14日、バスチーユ牢獄の襲撃が起こったことによってフランス革命が勃発しました。

1789年に人権宣言が出来上がり、この人権宣言を前文に盛り込んでフランスで最初の憲法、1791年憲法が出来上がりました。

立法議会とは

1791年憲法が成立したことにより、そこには選挙に関する規定も盛り込まれていました。

それによって選挙が実施され、1791年9月30日には国民議会は立法議会に引き継がれたのです。

これはフランス最初の立憲君主制の議会です。

1791年憲法に従って集められ、ルイ16世とマリーアントワネットら一家がテュイルリー宮殿で捕らえれ、タンプル塔に幽閉された後、国民公会のための選挙を行い、解散しました。

立法議会というのはあくまでも略称であり、正式名は立法国民議会です。国民議会が解散した後、議員であったロベスピエールは「法を作ったものが恩恵に預かるのはいかがなものか」と述べたことにより、立法議員たちはほぼ全員が新人だったと言われています。

国民公会とは

立法議会が解散した後、1792年から1795年までは国民公開というものが存在することになりました。

これは一院制の立法府にあたり、行政権も担っていたと言われています。

ロベスピエールの提案によって国民公開という名称に決まり、フランス革命が起こっている最中では唯一である男性普通選挙が行われたと言われています。

ただし、それは直接選挙ではなく間接選挙でした。

まとめ

いかがでしょうか。

テニスコートの誓いによって国民議会が出来上がり、それが立法議会、そして国民公会へと変わっていったのです。

その後もフランスの政治は二転三転として行きますが、これらの流れが今のフランスの政治を作り上げたと言えるでしょう。

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