フランス革命によって国王と王妃はどうなったのでしょうか。
フランスというのは15世紀になり、絶対王政が行われていた国です。
ルイ14世の時代に建てられたベルサイユ宮殿は非常に煌びやかで、同時にそれは国王の象徴でもありました。
それならば、革命によって国王と王妃はどのようになってしまったのでしょうか。
ここでは国王と王妃のその後について解説します。
国民の怒りの矛先
フランス革命が起こった当初、フランスは不作にあえいでいました。
巷では1784年にアイスランドで噴火したラキ火山による有害物質がヨーロッパ全土に広がり、イギリスなどでも多くの人や家畜が命を落としたと言われています。
また1786年以降はその粉塵により、あちこちの国で農業に支障が起こりました。
そのため、フランスにおける不作もこれが原因の1つだったのではないかと考えられています。
いずれにせよ、農作物が取れないが故に人々の生活が苦しくなり、さらに国王や王妃が贅沢な生活をして国民から税金をとっていたため、怒りの矛先はまず国王や王妃に向かったのです。
特にオーストリアから嫁いできたマリアントワネットは怒りの対象となりました。
逃亡と幽閉
しかし、まだまだ王党派人物もいましたから、国王と王妃に対して同情的な人もいたといえます。
また、パリの女性たちがベルサイユ行進を起こし、革命が広がりつつあったときは、マリーアントワネットは家族で一緒にいることを望みました。
多くの貴族たちがベルサイユ宮殿から逃げていく中、国王一家は宮殿に残ったのです。
しかし、このままでは危ないとなった時に彼らは平民の服装をし、馬車で逃げ出しました。
隣国オーストリアはマリアントワネットの出身国ですから、国境の近くまで逃げれば何とかなると考えたのです。
この目論見は失敗に終わり、彼らは平民に見つかって連れ戻され、タンプル塔に幽閉されることになりました。
それまでは同情的だった人々でも国を捨てて逃げた国王と王妃に対しては冷たい対応をしたのです。
これを8月10日事件と呼びます。
王政の廃止と処刑
国王と王妃が国をを捨てて逃げたという段階で王権が停止されました。
そして彼らの裁判が始まり、最終的に国王と王妃はギロチンにかけられて処刑されたのです。
どちらの裁判も不公平なものであり、すでに処刑が決まっているようなものでした。
特に王妃に関しては、息子であるルイシャルルから引き離されとても弱っていましたが、革命派たちはルイシャルルに自慰を教え、王妃はそれを見て喜んでいたという近親相姦の疑いをもたせ、マリーアントワネットを処刑にしようとしたほどです。
確かにマリーアントワネットが贅沢な暮らしをしていたという事は史実ですが、現時点では「パンがないならケーキを食べれば?」というのは彼女のセリフではないとか考えられており、オーストリアのマリアテレジアの末娘として育ち、フランスに14歳で嫁入りをした立場であるということを考慮し、現在では同情的な考えもたくさんあります。
まとめ
いかがでしょうか。
時代的にも啓蒙思想が広がっていた頃ですから絶対王政は少なからず長続きはしなかったと言えるでしょう。
ちなみに国王と王妃の息子、ルイシャルルは国王の処刑と同時にシャルル17世となりましたが、その後は靴屋に引き取られ、虐待されて病死しました。