フランス革命における国王裁判とはどのようなものだったのか

フランス革命における国王裁判というのは一体どのようなものだったのでしょうか。

8月10日事件によって、国王と王妃達一家はタンプル塔に幽閉されました。

それまでは国王と王妃に対して同情的だった人たちも、さすがにヴァレンヌ逃亡事件が起こった後は「国を捨てた国王」に嫌悪感を持つようになり、国王や王妃の処刑を望む声が高まったのです。

それならば、どのような国王裁判が行われたのでしょうか。

ここではそんな国王裁判について解説します。

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家族と面会はできない

タンプル塔に幽閉された後、ルイ16世は家族とは別の部屋に閉じ込められました。

ルイ16世とマリーアントワネットの次男であるルイ17世は、靴屋に引き取られ、虐待された後、父親であるルイ16世が過ごした部屋に閉じ込められたとも言われています。

ルイ16世は不自由な生活を強いられ、その間、国王をどうするかという事について国王を守ろうとするフイヤン派、所見を求めるジャコバン派、慎重に対応しようとするジロンド派が対立していました。

この頃、国王ではなく王政そのものが処罰されるべきであるという考え方が出始めます。

処刑の判断について

石を裁判において、ルイ16世をどうするかということに関しては投票が4回行われました。

まず有罪ということは簡単に決まりましたが、ルイ16世をどんな形に処するかということに関しては無条件の死刑という票が最も多いということがわかりました。

いつ処刑するかということに関しても投票がなされ、即刻死刑にするということが決まりました。

1793年1月21日、ルイ16世はギロチンで処刑されたのです。

皮肉なことにも、ギロチンの導入が考えられた時、その指の角度を斜めにするようにと助言したのはルイ16世本人でした。

マリーアントワネットの裁判

ルイ16世が処刑された後は、マリーアントワネットをどうするかという裁判が行われました。

人々は、次はマリーアントワネットをどのような罪で処刑するかということを話し合っていましたから、彼女の裁判は極めて不平等であったと考えられています。

特に、彼らの次男であるルイ17世をマリーアントワネットから引き離した後は、ルイ17世に自慰行為を教え、母であるマリーアントワネットがそれを見て喜び、近親相姦をしていたというでっちあげをしようという試みさえなされました。

また、ルイ17世に至ってはルイ16世の息子であるということから虐待され、最終的に病死しています。

まとめ

いかがでしょうか。

ルイ16世は無実の罪で亡くなったとも言われていますが、この国を裁判もルイ17世に嫌悪感を持つ者たちが推し進めたものであったと言っても良いでしょう。

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