フランスにおける三部会の役割を知っているでしょうか。
フランスには、聖職者、貴族、平民という3つの身分がありました。
国民の2パーセントを聖職者が貴族が占めており、平民は98パーセントを占めていたとされています。
しかし、そんなに少ない聖職者と貴族が平民から税金を取り、平民の暮らしを圧迫していました。
そんな中で三部会というものが開かれたのですが、フランス革命における三部会の成果とは一体何だったのでしょうか。
ここでは、三部会の成果について解説します。
目次
三部会とは
三部会というのは、聖職者、貴族、平民の3つの身分が集まって行う会議のことです。
通常は全国三部会を指し、重要課題について議論していました。
しかし15世紀になって絶対王政が確立され、1614年以降は三部会は召集されませんでした。
フランス革命で有名なルイ16世の時代になり、フランスの王室は財政破綻に直面し、平民からの税金ではやっていけないということから特権身分にある貴族たちからも税金を取ろうとしたところ、パリ高等法院が抵抗し、三部会の招集が行われたのです。
1789年5月5日、久々の三部会が開かれました。
1789年、最後の三部会
1614年のやり方通り、三部会の身分の定数は同じであると定められたままで三部会が行われました。
しかし、そもそも人口の98パーセントを占める平民たちは定員の倍増を要求し、最終的にその要求は受け入れられていました。
1789年5月5日、ベルサイユ宮殿で三部会が開催されると、各身分が持っている投票数は一興であり、そもそも定員が多くても意味がなく、むしろ聖職者と貴族が2票入れてしまえば平民は負けてしまうということが明らかになりました。
そのため、三部会はすでに行き詰まったのです。
せっかく約170年ぶりに召集された三部会は、むしろ国民たちが立ち上がるきっかけになってしまったのです。
言い換えれば、三部会が招集された成果としては人々が立ち上がり、フランス革命を起こし、人権宣言を打ち出すためのきっかけとなったと言えるでしょう。
テニスコートの誓い
最終的に三部会はうまくいかず、国王は抵抗して会議場を閉鎖しました。
そこで国民たちは球戯場に移って議論を行ったのです。
彼らはフランス革命直前、1789年6月20日、球戯場の誓い、あるいはテニスコートが誓いと呼ばれるものが始まりました。
彼らはシェイエスの呼びかけによって1789年6月10日に集まり、6月17日には「第3身分こそ国民を代表している」と唱えて国民議会を生するようになったのです。
ここに進歩的な貴族たちも合流し始め、彼らは憲法が制定されるまで決して解散しないということを明らかにしました。
つまり、ルイ16世が開催した三部会は聖職者貴族にとっては成果があったわけでは無いのですが、第3身分の平民にとっては自分たちでフランス革命を起こすという成果を得るきっかけとなったのです。
まとめ
いかがでしょうか。
三部会というのは名前こそ平等に聞こえますが、実はかなり不平等なものであったとも言えます。
絶対王政が始まり、しばらく開かれていなかったにもかかわらず、1789年に三部会が開催されたことにより、フランス革命が起こったと言えるでしょう。