フランス革命期の政治家ダントンとは?

フランス革命期における代表的な人物の一人にダントンという政治家がいます。

ダントンはジャコバン派の人間でしたが、ロベスピエールとは思想的にずれがあり粛清されてしまします。

ではダントンとはどういった活躍をした人物だったのでしょう。

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ダントンとは

フランス革命以前は弁護士で、革命に共感しジャコバン・クラブに参加します。

ジャコバン・クラブというのは元々、さまざまな思想を持つ人が集まる政治クラブでした。

これが革命期の中で政治的な理念や政策の違いから分裂し、最終的にロベスピエールやサン=ジュストらの山岳派と呼ばれる派閥が残り独裁化します。

1790年にコルドリエ・クラブを創設した後、シャン・ド・マルスの虐殺という事件に巻き込まれて、一時イギリスに亡命をします。

その後8月10日事件で民衆を扇動し、立憲君主制を支持するフイヤン派を失脚させ、司法大臣となります。

公安委員会のメンバーになり革命裁判所の創設にも関わり、革命の指導者としての地位を築いていきました。

革命の早期収束を図ろうと画策していたところ疑いを掛けられ、サン=ジュストの告発により革命裁判で粛清されました。

ジャコバン・クラブからジャコバン派へ

ジャコバン・クラブの中にもさまざまな派閥があり、当初は立憲君主制を支持するフイヤン派が多数派でしたが国王一家が亡命を図ったヴァレンヌ事件をきっかけに失脚します。

次に穏健共和派と言われるジロンド派は、共和制が実現された段階で革命を収束させ対外政策に切り替えようと考えました。

しかし更なる革命を推進させようとする山岳派との対立が深くなります。

結果的にジロンド派は失脚し、ジャコバン・クラブは山岳派のみが残ることとなり、山岳派はジャコバン派と呼ばれるようになります。

ジャコバン派はもともと急進的な革命思想を持った派閥でしたが、他に受け皿がなくなったため、ジャコバン派の中でも派閥が生じます。

やがてこれが派閥闘争となってジャコバン派の中であっても粛清対象となってしまう状況となりました。

ダントンの政治思想

ダントンは革命推進派ではありましたが、その中でも比較的穏健派な思想で、彼の思想は穏健共和派と言われているジロンド派に近いものでした。

実際にダントンはイギリスから帰国後、ジロンド派の指導者であるブリソーという政治家に接触しています。

ですがジロンド派のロランに嫌われたため急進派と言われる山岳派のロベスピエールに近づいたのだそうです。

ダントンは平民の身分でしたので、そのこともあり共和制を支持していたのでしょう。

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