フランス革命が勃発した当時、ヨーロッパ諸国はまだ現在のような国境線ではありませんでした。
ドイツもまたそうであり、現在のドイツ領は革命当時「神聖ローマ帝国」と「プロイセン王国」と呼ばれる国の一部でした。
とはいえフランス王国が隣国であることは変わりませんでしたから、どちらの国も革命によって多大な影響を受けたことは間違いありません。
神聖ローマ帝国とプロイセン王国
神聖ローマ帝国はその前身が東フランク王国であり、現在のドイツ領の原型だったと言われています。
神聖ローマ帝国はそれぞれの領土の自治権が強く、領邦国家と呼ばれる体を成していました。
フランス革命が終った後の1806年に解体され、その後その領土はナポレオンによって再編されます。
プロイセン王国は1701年に出来た国で、もともとはプロイセン公国に神聖ローマ帝国のブランデンブルク辺境伯領がくっついて誕生しました。
この辺りは神聖ローマ帝国の歴史が絡んで複雑になってくるのでここでは言及しません。
プロイセン王国は革命後も存続しドイツ統一によってドイツ帝国の中心となります。
これはまだずいぶん先の話になりますが、元をたどればフランス革命がきっかけだと言えるでしょう。
ドイツとフランス革命戦争
フランス革命が勃発した当初、ヨーロッパ諸国は静観していました。
しかし国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが亡命を図ったことで事態が変わります。
当時の神聖ローマ帝国皇帝レオポルト2世はマリー・アントワネットの実兄でしたので、フランスに干渉する大義名分を得ます。
彼はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世とともに「ピルニッツ宣言」を出します。
レオポルト2世は親族の救出を目的としていたので武力介入の意志はありませんでしたが、これによりフランスは神聖ローマ帝国に宣戦布告し、フランス革命戦争につながります。
プロイセンは神聖ローマ帝国と同盟関係にあったのでその後フランスに対して宣戦布告し、フランス革命政府はドイツと交戦状態となります。
フランス革命がドイツにもたらしたもの
1795年にオランダが陥落しプロイセン王国はフランスと講和し、プロイセンはフランス革命戦争から撤退します。
その後も神聖ローマ帝国は他のヨーロッパ諸国とともにフランスと戦いますが、近代的な国民軍となったフランス軍に対し戦果を挙げることができませんでした。
1799年にナポレオンによるクーデターでフランス革命は終焉を迎えますが、後にナポレオン戦争と呼ばれるナポレオンによる侵略は続いていきます。
フランス革命戦争は当初フランスに対する侵略戦争でありましたが、それが逆転してフランスによるヨーロッパへの侵略戦争となりました。
ナポレオンの快進撃によって結果的に神聖ローマ帝国は解体し消滅、プロイセン王国もまたナポレオンによって多くの領土を失いました。
フランス革命の影響によってその後ドイツは何度か再編され、ドイツ連邦やドイツ統一戦争を経てドイツ帝国を建国、ドイツとしての統一国家が誕生することとなります。