フランス革命でテルミドール派は何をしたのか

革命により、テルミドール派は何をしたのでしょうか。

テルミドール派というのは、ルイ16世やマリーアントワネットが処刑され、王政が廃止された後に台頭したジャコバン派に対立する勢力を指します。

ジャコバン派ではロベスピエールが独裁を繰り広げ、恐怖政治を行いました。

そのため、1794年7月21日にはテルミドールのクーデターが起こったのです。

この日にロベスピエール側処刑されることになりました。

それならば、具体的にテルミドール派は何をしたのでしょうか。

ここではテルミドール派の動きについて紹介します。

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恐怖政治

恐怖政治というのは逮捕や投獄、殺害などの過激な手段によって反対者を弾圧する政治のことを指します。

暗黒政治と言われることもあり、国民に恐怖心を持たせ、強引に自分の権力を維持する政治全般のことを指すのです。

8月10日事件によって王権が停止され、王政は共和政に変わりました。

それによってジャコバン派が台頭し、ロベスピエールが力を持つようになっていたのです。

特に1794年、ジャコバンはがフランスの洗顔などを納めますが、その後国民たちは恐怖政治に嫌悪感を持つようになりました。

1794年春、ダントンらが処刑されたことを受け、ロベスピエール率いるジャコバン派に対し、反発が大きくなっていくのです。

1794年7月26日はテルミドール8日とも呼ばれており、この日はのロベスピエールが「粛清されなければいけない議員がいる」という演説をした日でした。

誰のことかわからないため人々は震え上がりましたが、ロベスピエールに対する反発はこれで決定的なものとなってしまったのです。

テルミドール9日の始まり

翌日7月27日、ロベスピエールは国民公開に臨みました。

しかし彼は発言することができず、その日の午後、ロベスピエールらの逮捕が決まったのです。

7月28日、ロベスピエールらに死刑判決が下り、その日の午後彼らはギロチンに出処刑されました。

その日には22人が革命広場で処刑され、翌日には70人、その次の日には12人が処刑されたと考えられています。

これによって恐怖政治が集結しました。

つまり、テルミドール派の働きによって恐怖政治が終わったのです。

まとめ

いかがでしょうか。

フランス革命はルイ16世とマリーアントワネットが処刑されて終わったものではありません。

この後も政治的には様々な考え方が出現し、分裂が起こっていきます。

テルミドール派はジャコバン派の恐怖政治を終わらせたという役割を持っているのです。

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